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「あの人がいないと、この仕事は回らない」
中小企業でよく聞く言葉です。長年の勘、取引先ごとの癖、機械の調子の見分け方。ベテランの頭のなかにある知識で、現場が支えられています。
その状態は、企業にとって強さでもあり、弱さでもあります。たとえば、新入社員がマニュアルを何十ページも読むより、ベテランの横で3日教わったほうが早いことも多いでしょう。相手に合わせて、その場で伝えられるからです。
けれど、その人が体調を崩したら。あるいは定年や転職で職場を離れたらどうでしょう。仕事はそこで止まってしまうかもしれません。そして、残った人は、同じことを一から聞き直すはめになります。その段になって、「マニュアルにしておけばよかった」と、多くの会社が同じ後悔を口にしても遅いのです。
では、全部マニュアルにすればいいのでしょうか。話はそう単純ではありません。本記事では、どこまでを書き、どこを人に残すのか。その線の引き方を考え、デジタルでの解決方法を考えていきます。
【本記事の要点】
- 口伝えは文脈ごと速く伝わる強みがある一方、人が抜けると止まり、同じ説明を繰り返すことになる
- 「全部を書き起こす」のは原理的にも費用の面でも無理があり、書いただけでは知識は循環しない
- 2026年のものづくり白書では、技能継承を重視する企業は9割を超える一方、うまくいっているのは3割ほどである(製造業・従業員30人以上・企業の自己回答)
- 線引きは「知識の種類」ではなく「失敗したときの重さ」で考え、必ず固定するもの・考える手がかりとして残すもの・人の経験に委ねるものに分ける
- デジタル(動画・AI文字起こし・社内AI検索)は熟練者の代わりではなく、人へつなぐ索引として使う
口伝えの強みと弱み
口伝えの強みは、文脈ごと渡せることです。
- この材料のときは、少し温度を下げる
- この客先は、納期より仕上がりにうるさい
理由も、例外も、さじ加減も、会話のなかで一緒に伝わります。教わる側は、見て、まねて、質問して、やってみて、直される。この一連の流れが、言葉1つでも伝わりやすいのが、口伝えの強みです。
弱みは、暗黙知の伝承が教える側に依存することです。教わる側が1人増えるたびに、教える側は同じ説明をやり直すことになります。教え方の質は教える側の得手不得手に左右され、どれだけ時間を割けるかも教える側の忙しさ次第です。
そして何より、退職や異動で、知識がまるごと消えてしまいます。1人の頭のなかにしかない分、広げるには時間がかかり、失うときはあっけないほど早いものです。
マニュアルに「全部書けばいい」にならない理由
ここで「だったら全部マニュアルにしよう」と考えたくなります。ですが、そこには無理があります。
書いただけでは知識は動かない
まず、人は自分が知っていることを、全部は言葉にできません。熟練者の「なんとなくおかしい」という感覚は、多くの経験が背景で働いた結果で、本人にも手順として説明しきれない部分があるでしょう。
実際、マニュアルに書き、それを読んだだけでは知識とはなりません。手順書があっても、実際にやってみて、つまずいて、質問して、直してもらう過程がなければ、なかなか身につかず、読めば分かる、とは限らないのです。
さらに、マニュアルに全部を書き、撮影し、分類し、更新し続けるには、相応の手間がかかります。変化の速い例外まで文書にすると、今度は「探すのに時間がかかる」「古い情報が残る」という別の問題が生まれます。
出典・参照:
数字が示す「重視9割・手応え3割」の差
このことは、数字にも表れています。2026年版のものづくり白書によると、技能の継承を「重視する」と答えた製造業の企業は9割を超えました。一方で、その継承が「うまくいっている」と答えた企業は3割ほどにとどまります。
この調査は従業員30人以上の製造業が対象で、企業自身の回答にもとづくものですが、「大事だと思っている」と「実際にできている」の開きは、はっきりしています。
うまくいかない理由として挙がるのは、大きく分けて次の3点です。
- 若手が採用できない
- 教える時間がない
- 教える側と教わる側のやりとりがかみ合わない
これを見ても、「文書を整えれば解決する」という話ではないことが分かるのではないでしょうか。
出典・参照:
職人技とマニュアルの「間」をデジタルで設計してみる
マニュアルに全部の手順は書けない。かといって、書かなければ、いずれ知識は消えていく。ならば、デジタルという道具は、この「間」にどう置けばいいのでしょうか。
固定する部分、任せる部分
答えは、知識の種類で分けることではありません。間違えたときの重さ、繰り返す頻度、変わりにくさで見ていくと、自然と役割が分かれてきます。
安全のルールや法令、品質の基準、顧客との約束のように、担当者の裁量に委ねてはいけない部分は、デジタル云々の前に、まず会社の意思として固定してしまうべきものです。
たとえば、ある町工場でベテランが「この機械は、この音がしたら止める」と体で覚えていたとします。本人がいる間は何の問題もありません。ですが、それは「担当者の勘」ではなく、本来は工場全体が共有すべき安全基準です。ここを個人の裁量に委ねたままにしておくこと自体が、すでにリスクです。
一方、何を見るか、なぜそうするかという判断の手がかりは、書き切る必要はありません。「この客先は納期にうるさい」という一文だけでは、次に同じ状況に出会った後継者は結局判断に迷ってしまうでしょう。
むしろ、「なぜ納期にうるさいのか」「過去にどんな失敗があったか」という背景と経緯を添えることで、初めて考えるための材料になるのです。動画、写真、音、数値、あとで検索できる記録は、答えそのものではなく、答えにたどり着くための思考の手すりとして使うのが向いています。
そして、手触りや間合い、相手の様子に合わせた対応、初めて見る異常への勘、経営や倫理の面での優先順位は、そもそもデジタル化を目指す対象ではありません。同じ手順書を読んでも、初めて異常に気づけるかどうかは、経験の積み重ねでしか変わらないからです。
会社にできるのは、一緒に現場に出て、ペアで作業し、振り返るといった、経験を積む機会そのものを設計することです。
「代わり」ではなく「索引」として使う
技能伝承の道具として、動画やAIが注目されています。ただ、その役割を「熟練者の代わり」と考えると、期待が大きすぎます。
動画は、動き、姿勢、道具の当て方、正常な音と異常な音のように、目や耳で捉えられる情報を伝えるのに向いています。何度も見返せて、字幕で多言語にでき、離れた場所にも配れます。
一方で、力の入れ具合、手触り、周囲のにおい、撮影のときには起きなかった例外までは、映像に残せません。見る人が映像の「正しい点」を見抜けるとも限らず、見た回数がそのまま習熟につながるわけでもありません。
AIによる文字起こしや議事録は、熟練者への聞き取りやトラブル対応のやり取りを、記録として残す手間を下げてくれます。社内の文書を検索して答えを組み立てるしくみ(いわゆる社内AI検索)も、うまく使えば「誰に聞けばいいか分からない」状態を減らせるでしょう。
ただし「導入すれば正確に答えてくれる」わけではありません。検索のもとになる文書がどれだけ整理されているか、質問がどれだけ的を射ているかで、精度は大きく変わります。
そのため、デジタルは熟練者の代わりに置くのではなく、熟練者へつなぐ索引として使うのが現実的です。AIの回答に「もとにした文書」「最終更新日」「詳しい担当者」「この条件のときは要相談」を添える。そこまでして、はじめて現場で使えるようになるのです。
受け継ぐ前に棚卸しする
もう1つ、忘れてはいけない視点があります。それは、ベテランのやり方が、いつも正しいとは限らない、ということです。
長年続いてきた手順のなかには、根拠のない慣習、今の法令に合っていないやり方、安全を軽く見た近道、特定の人にだけ負担を寄せる段取りが、まぎれていることがあります。それを「昔からこうだから」と、そのまま次の世代へ渡してしまうと、問題も一緒に受け継がれてしまうでしょう。
そのため、知識を書き出す作業は、そうした「受け渡すべきではない暗黙知」を排除する、棚卸しの意味も持っています。「なぜこうしているのか」と問い直して、説明できないものは、この機会に見直す。形式知化は、保存であると同時に、点検の場でもあります。
まとめ:固定する部分と任せる部分を分けてから、線を引く
口伝えで回っている会社は、弱いわけではありません。文脈ごと素早く伝わる口伝えには、はっきりした強みがあります。問題は、口頭で伝えていること自体ではなく、何を標準とし、いつ見直し、間違いをどう正すか、その回路がないことです。
だからこそ、職人技とマニュアルの間には、どこかで線を引かなければならないのです。
- 安全や品質や法令にかかわることは必ず書く
- 書き切れない手がかりや失敗例は、考えるための手がかりとして残しておく
- 手触りや対人の勘は、人と実践のなかで受け継ぐものだと割り切る
全部を1枚のマニュアルへ押し込もうとするより、この3つの重さで仕分けて考えるほうが現実的です。
口伝えをゼロにするのが正解ではありません。必ず書くこと、考えるための手がかりとして残すこと、人と実践で受け継ぐこと。この線引きを自分の言葉で説明できる会社が、速さも、強さも、両方を保っていけるのではないでしょうか。
執筆者
株式会社MU 代表取締役社長
山田 元樹
社名である「MU」の由来は、「Minority(少数)」+「United(団結)」という意味。企業のDX推進・支援を過去のエンジニア経験を活かし、エンジニア + 経営視点で行う。DX推進の観点も含め上場企業をはじめ多数実績を持つ。


