ネットタイムとグロスタイムの違い|ICチップ計測が変えたマラソンの記録

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市民マラソンでは、参加者が小さなICチップを身に着けて走ります。このチップによる計測が広がったことで、大会後に届く結果表には、同じ人の同じ走りに対して、タイムが2つ並ぶようになりました。号砲から数えた時間と、自分がスタートラインを越えてから数えた時間。どちらが、本当の自分の記録なのでしょうか。

大きな大会では、号砲が鳴っても、後方に並ぶ参加者がスタートラインを越えるまでに数分かかることも少なくありません。この待ち時間を解消するために生み出されたICチップ計測は、1人ひとりがラインを越えた時刻を個別に記録できるようにし、その待ち時間を除いたタイム計測を可能にしました。

本記事では、結果に2つのタイムがある理由を競技規則と大会の使い分けから整理し、計測の仕組みが記録の意味をどう変えたのかを考えます。

【本記事の要点】

  • 結果表の2つのタイムは、号砲から数えるグロスタイムと、スタートラインを越えてから数えるネットタイムである
  • ICチップは走りを常に追うのではなく、計測マットを通過した時刻を固有のIDとともに記録する
  • 競技規則上の公式な時間は号砲からの時間で、大会はグロスタイムとネットタイムを目的ごとに使い分けている
  • 計測の起点と目的の設計が、同じ走りの記録に別の意味を与えている

ネットタイムとグロスタイムの違い:同じ号砲を聞いても、全員のスタートは同じではない

号砲から始まるグロスタイムとスタートマット通過から始まるネットタイムが同じフィニッシュへ向かう図

結果表に2つのタイムが載るのは、なぜでしょうか。その答えは、マラソンのスタートの仕方にあります。

東京マラソン2025のマラソン出走者は、37,480人でした。これだけの人数がスタートする大会では、全員が号砲と同時にスタートラインを越えられるわけではありません。後方に並んだ参加者には、ラインに着くまで待つ時間が生じるのです。

号砲から数える時間には、この待ち時間も含まれます。そこで結果には、2つの数え方が用意されています。それぞれの意味は、次のとおりです。

呼び方数え始める時点数え終わる時点
グロスタイムスタートの号砲フィニッシュラインの通過
ネットタイムスタートラインの通過フィニッシュラインの通過

ネットタイムの起点は、走り始めの一歩目ではありません。スタートラインにある計測マットを、ICチップが通過した時点です。

グロスタイムは全員に共通ですが、ネットタイムは、1人ひとりがラインを越えた時刻を個別に記録したデータがなければ成り立ちません。ネットタイムは、データの持ち方が生んだ記録です。

出典・参照:

ICチップ計測の仕組み:小さなチップは、ランナーのどの瞬間を記録しているのか

固有IDを持つランナーがスタート・中間・フィニッシュの計測マットを通過しデコーダーへ記録される流れ

ICチップが記録しているのは、走りそのものではありません。コースに置かれた計測マットを通った、その時刻です。この章では、チップとマットがどのように時刻を残すのかを見たうえで、その記録が着順の判定とどう違うのかを確かめます。

固有IDのタグと計測マットが、通過の時刻を記録する

ICチップ計測で使う計時用のタグは、競技規則上の名称を「トランスポンダー」といいます。計測会社MYLAPSの資料によれば、参加者はビブス(ナンバーカード)や靴にタグを1つ付けます。

タグは参加者を識別するための固有のUHF信号を発し、コースに敷かれたマットがその信号を検知して、デコーダーという装置が計時を担います。計測地点は、スタート、フィニッシュ、そして途中の中間点です。

記録されるのは、タグのIDと、マットを通った時刻の組です。スタートのマットを通った時刻からフィニッシュのマットを通った時刻までの差が、ネットタイムになります。

一般的な計測チップは、GPSのようにコース全体を連続して追うのではなく、設置された地点の通過を記録するものです。

出典・参照:

地点の通過を記録するもので、着順の判定そのものではない

数字が精密でも、意味まで自動で正しいわけではありません。競技規則では、着順は胴体(トルソー)がフィニッシュラインに達した順で判断するとされています。タグが記録するのは、靴やビブスなど、装着した位置がマットを通った時刻です。僅差のフィニッシュに備え、審判や映像などのバックアップを用意することも示されています。

ICチップが残すのは、計測マットを通った時刻という事実です。その時刻を着順の判定に使うのか、本人のタイムとして使うのかは、データとは別に、人が決めることです。

では、ICチップ計測はどのようにして市民マラソンに広がったのでしょうか。次の章で、その経緯を見ていきましょう。

出典・参照:

ICチップ計測の歴史:市民マラソンでネットタイムが計れるようになったのは1990年代

1993年のチップから1996年4月21日のネットタイム計測までを示すマラソン計測の年表

この章では、ネットタイムの計測が日本の市民マラソンに広がった流れを、各社の資料に基づいて見ていきましょう。ICチップ計測がたどった主な出来事を、時期の順に並べると次のとおりになります。

時期出来事資料
1993年オランダのランニング愛好家らが、靴に付けるチップを使うChampionChipを発明MYLAPS
1995年ロッテルダムマラソンで、ハーフマラソン地点の中間タイムを記録MYLAPS
1995年秋ランナーズ社が、国内各地の大会で計測にChampionChipを導入RUNNET
1996年4月21日第9回小笠・掛川マラソンで、全参加者の5kmごとのスプリットタイムとネットタイムを完全計測RUNNET

年表の前半はMYLAPS、後半はRUNNETの『市民ランニング小史』に基づく、各社の記述です。RUNNETの小史は、小笠・掛川マラソンを、全参加者のスプリットタイムとネットタイムを日本で初めて完全に計測した大会と記しています。

同じ小史には、グラフ付きのスプリットタイムとネットタイムが入った完走証が、ランナーから驚きと喜びの声を集めたとあります。

ここで変わったのは、計時の精度だけではありませんでした。全参加者の5kmごとの通過タイム(スプリットタイム)と、スタートラインからのネットタイムが完走証に載るようになったことで、参加者は、自分がどのペースで走り、実際にどれだけの時間で走り切ったのかを、後から確かめられるようになったのです。

このときから、記録は大会が順位を確定するための材料であるだけでなく、参加者1人ひとりに返る自分の走りのデータにもなりました。通過時刻を自動で取得して集計する仕組みが、その土台となったのです。

出典・参照:

公式な記録はどちらか:グロスタイムとネットタイムの使い分け

号砲からの公式の時間とスタート通過からの本人の記録を目的で使い分ける図

結果表に並ぶグロスタイムとネットタイムのうち、公式な記録として扱われるのはどちらでしょうか。競技規則は、公式な時間を定めています。一方で、実際の大会は、目的に応じて2つのタイムを使い分けています。

この章では、競技規則の定めと、神戸マラソンや大阪マラソンの例から、それぞれのタイムが使われる場面を確かめます。

競技規則では、公式な時間は号砲から数える

World Athleticsの競技規則も日本陸上競技連盟の競技規則も、公式な時間はスタートの合図からフィニッシュまでの時間、つまりグロスタイムです。ネットタイムは、競技者に知らせてよい時間とされていますが、公式な時間ではありません。

一方で、一般ランナーの順位付けなどにネットタイムを使うことは認められています。公式でないことは、ネットタイムに価値がないことを意味しません。順位を決める場面でも使えるほど、用途のある時間です。

出典・参照:

大会は、目的ごとに使うタイムを選んでいる

一般ランナーの順位付けにネットタイムを使うことが認められている中で、実際の大会では、その使い方が分かれています。次のとおりです。

大会グロスタイムの扱いネットタイムの扱い
神戸マラソン総合表彰(男女各1〜8位)の基準年代別表彰(5歳刻み)の基準
大阪マラソン公式記録参考記録

先にフィニッシュした人を決めるなら、全員が同じ号砲から数えるグロスタイムが公平です。自分がどれだけ走ったかを振り返るなら、待ち時間を除いたネットタイムの方が納得しやすいでしょう。神戸マラソンは、同じ大会の中で、この2つの公平を使い分けています。

データは、1つの数字に決めるほど公平になるとは限りません。ICチップが残すのは、1人ひとりの通過時刻という1種類のデータです。

数え始める時点を変えるだけで、順位を競うための記録と、自分の走りを振り返るための記録を、同じデータから作れます。これを、どちらか一方に統一してしまえば、もう一方の目的では不公平が残るでしょう。

これを解消するためにも2つの記録を併せ持てるようになったことで、大会は、場面ごとに何を公平とするかを選べるようになったのです。

出典・参照:

まとめ:記録の意味は、起点と目的で決まる

ICチップ計測は、全員に共通する号砲からの時間を廃止しませんでした。その隣に、スタートラインを越えた瞬間から数える、1人ひとりのネットタイムを置いたのです。そして、通過の時刻をIDとともに自動で記録するデジタルの仕組みが、同じ走りに2つの正しい時間を並べることを可能にしました。

競争のための正しい時間と、本人の達成を表す正しい時間は、併存できます。つまり、データの意味は、数字そのものよりも、どこを起点に、何のために出すかで決まるといって良いでしょう。デジタル化は、全員を1つの物差しに押し込むだけでなく、目的ごとに別の物差しを同時に持てるようにもするのです。

この話は、マラソンに限りません。企業が売上や対応時間などの数字に基準を持つときも、どこから数えて、何のために使うのかによって、同じデータの意味は変わるはずです。自社の数字にどんな基準を置いているのか、その基準は目的に合っているのかを、考えてみる機会にもなるでしょう。

次に結果表を開くときは、2つのタイムがそれぞれ、どこから数えた、誰のための時間なのかを確かめてみてはいかがでしょうか。

町田 英伸

執筆者

DXportal編集長

町田 英伸

自営での店舗運営を含め26年間の飲食業界にてマネージャー職を歴任後、Webライターとして独立。現在はIT系を中心に各種メディアで執筆の傍ら、飲食店のDX導入に関してのアドバイザーとしても活動中。『DXportal®』では、編集長としてすべての記事の企画、及び執筆管理を担当。特に店舗型ビジネスのデジタル変革に関しての取り組みを得意とする。「50s.YOKOHAMA」所属。